小市民ブログ

KelloggってMBAを出てアメリカで移民サバイバル生活をしています。サウナが好きです

書評:Streets of Gold: America's Untold Story of Immigrant Success

Freakonomicsで最近始まった移民シリーズに出演されていた、プリンストン大学の教授が書いたのが表題の本ですが、めちゃくちゃ良かったです。アメリカの歴史は移民の歴史と言いますが、辿ってきた歴史が日本と如何に異なるか、肌身に染みて理解できる一冊でした。

アメリカという国は、建国以来、何度も「外」の人間を受け入れ、その度に「アメリカ人」を再定義することを何度も繰り返してきた国であります。元々、大英帝国から渡ってきた人々(そしてその奴隷とされた人々)が「アメリカ人」だった訳ですが、今ではインドや中国、ラテンアメリカ等、世界中から移民を受け入れ、そしてその多くがアメリカ国籍を取得します。

ここに至るまで、何があったか。著者が受け持つ授業で、学生に「祖先はいつアメリカに来たか」と問うと、大多数は2つの期間を答えると言います。一つは1880年1920年、2つ目は1980年以降。この波の以前、以後で何があったかを捉えると、アメリカの移民の歴史についての見通しが良くなります。

19世紀以前

元々アメリカ大陸には土着のNative Americanの人々が住んでいた訳ですが、ここに移り住んできたのがイギリス人。そしてイギリス人は黒人奴隷の人々も連れてきました。

19世紀前半

アイルランドやドイツからアメリカに渡る人も増えてくるが、当時は蒸気船の登場以前でもあり、渡航は命がけ。

19世紀後半〜1920年(第一の波)

蒸気船が誕生し、大陸を渡るコストが次第に下がってくると、北欧、東欧、南欧へと移民の出身国が広がりを見せます。1900年時点では、東欧・南欧が全体の80%を占める様になります。この大量移民時代に終止符を打ったのが1921年のEmergency Quota Act。この法律が意図したところは、増大する南欧や東欧からの移民を抑制し、「元々のアメリカ人」であった西欧(+北欧)からの移民の割合を増やすこと。以後、1965年のNationality Actまで、アメリカへの移民は抑えられた状況が続きます。

1965年〜(第二の波)

アメリカが世界中から移民を受け入れる方針に転換したのが、1965年のNationality Act。現代アメリカを形作る、重大な法律です。ここで、国別のQuotaを撤廃、また受け入れる移民の数を約2倍にまで増やしました。その後1980年以降、中国やインド、ラテンアメリカからのアメリカへの移民が本格化します。

移民の過去と現在についての誤解

移民政策がアメリカで語られる時、著者はリベラルも保守派も、どっちも誤解が多いと言います。両者が共通するのは、「過去の移民は経済的な成功を短期間で成し遂げ、アメリカに上手く溶け込んでいったが、今はそうではない」という主張。リベラルは今の移民が直面する困難に着目して声を上げ、保守派は現代アメリカが受け入れる移民の教育レベルの低さや同化への意識の低さを問題視します。

しかしながら、実際にデータを見ると、今も昔も、移民は同じ様なペースで社会階層を上がり、アメリカ社会に同化していくことが分かります。過去のヨーロッパからの移民を追っていくと、移民直後に所得が低い仕事についていた人は、キャリア終盤でもアメリカ生まれの人に所得で追いつくことが出来ないのが一般的だった様です。移民として成功を収めた人はいる一方で、彼らの多くは所得が高いイギリス・ドイツを中心とした、移民当初で高所得のキャリアを選べた人でした。

実際、「アメリカンドリーム」として語り継がれる、大成功を収めた人は、恵まれたバックグラウンドであるケースが多く、eBay創業者Pierre Omidyar(父はジョンズ・ホプキンスの外科医、母は言語学のPhD)、Google創業者Sergey Brin(父は数学者、母はNASAの科学者)、Elon Musk(父はザンビアのエメラルド鉱山を保有していたエンジニア)等の事例を指摘しています。「移民」として取り上げられやすいのは上記の様な成功者であるものの、彼らは移民全体から見ると少数派なわけです。

著書では、ノルウェーからの移民が取り上げられています。20世紀初頭、貧困国であったノルウェーからはノルウェー社会の下層からアメリカに渡り、しばしばアメリカで母国の2倍の賃金を稼ぎ、ノルウェー帰国後はアメリカ型の民主主義や技術を国にもたらしました。母国よりは稼げるけどアメリカ社会での栄達は難しい、ただ母国に戻ると多くは成功を収め経済社会発展の原動力となる、というのが一般的な移民の姿だったようです。

アメリカンドリームは、子供世代で実現される

一方、多くの移民の子供世代は、経済的に大きな飛躍を成し遂げることが多い様です。所得下位25%で育ったImmigrant childrenが平均的な所得を成し遂げる確率は、アメリカ生まれの親を持つ家庭より高くなっています。それも、ナイジェリアやラオスグアテマラといった、所得が低い国の出身者でも、同様の傾向が見られます。

こちらは、私自身の肌感ともかなり一致しています。親の仕事をImmigrant childrenの友達に聞くと、Cleaningや飲食店の経営がしばしば挙がりますが、当人は有名校でMBAをとったりGAFAMで働いたりしています。また、Uberの運転手が、子供はペンシルベニア大でPhDなんだと誇らしげに語る、といった場面には今まで何度も遭遇しました。移民の親世代、小世代については、こちらのKorean Americanの方の動画が凄く良かったです。

なぜ移民の子供世代は経済的な成功を収めるのか。著者が指摘している1点目の理由は、移民が選ぶ都市。移民は通常所得が高く経済が伸びているエリア、NYやカリフォルニア、シアトル、今だとテキサスやフェニックス等に移る傾向があります。多くのアメリカ出身者は、LocalのCommunity、繋がりの中で生きていくことを選び、それはしばしば所得とトレードオフになりますが、移民の場合はフラットな目で経済的に機会が多い場所に移ることになる。そこで生まれ育つImmigrant childは平均的なアメリカ人よりも経済的に恵まれる可能性が高くなります。

2点目の理由として、親世代が英語や現地のネットワークの弱さ等、移民という立場故に労働市場でUnderperformする傾向がある一方で、子世代はそういった障壁から自由であることが指摘されます。ロシア人の科学者はアメリカでタクシー運転手として生計を立てることになるかもしれませんが、子世代はアメリカで教育を受け、親世代が成し遂げられなかった夢の仕事に就く可能性が高くなります。

移民の社会への統合の歴史

「昔のヨーロッパ系の移民は、アメリカ社会にもっと早く溶け込んでいた」という言説についても、著者は神話に過ぎないと指摘します。居住地での「統合具合い」を定量化すると、1920年でも2020年でも、移民は移民が多い地域を選ぶ傾向が同じ程度となります。1860年代、マサチューセッツ州のLowellやLawrenceに移ったアイルランド系移民、1880年代のSFの中華系、1910年のロードアイランド州のProvidence、そして1930年代のカリフォルニアやテキサスに移ったメキシコ系移民も、同じ様なバックグラウンドを持つ人達で身を寄せ合っていました。移民は、アメリカにいる年数が増えるにつれて子供にアメリカ風の名前を与える確率が高まり徐々に同化を進めていきますが、そのペースは過去も現代の概ね変わらないと指摘されています。

雑感

巷で言われる「アメリカンドリーム」について、正しい期待値感を教えてくれる本でした。また、今まで私は白人は「白人」という極めて大きなカテゴリーで捉えていましたが、彼らの中にも移民と統合の歴史があり、多様なバックグラウンドがあることを認識しました。Kellogg時代に良くしてくれたEvanston近隣在住の専業主婦の方はギリシャ系でしたが、「ブロンドヘアを持つ人の中には、私をOutsiderとして見る人もいる」と話していたことが、今になって腹落ちした感があります。Takeawayを雑にまとめると以下みたいな感じでしょうか。

  • アメリカといえど、何も持たない移民が社会階層を駆け上がるのは楽ではない
  • 来るなら、良い学歴・職歴を起点にしないと大きく稼ぐのは難しい
  • 何も持たない移民でも、子世代は大きく飛躍できる可能性が大きい
  • アメリカという社会は、200年前から「外」の人間を(様々な摩擦とともに)受け入れ、統合してきた歴史がある

移民でも楽に成功を収められる、という意味でのアメリカンドリームが存在したことは未だかつて無かった様ですが、現代アメリカは世界中から様々な階層の人間を受け入れ、他の国では無いOpportunityを提供する懐の深い国だと、再確認できました。最後に、この本のタイトルにもなっている、移民の引用を貼っておきたいと思います。

I came to America because I heard the streets were paved with gold. When I got here, found out three things: First, the streets weren’t paved with gold; second, they weren’t paved at all: and third, I was expected to pave them.

 

アメリカから日本の個別株を買う

Xのタイムラインで大変話題になっていたこちらの本、私も読みました。これは。。。。。

これまで、株式投資インデックス投資に限る、と思ってきました。『敗者のゲーム』とか『ウォール街のランダムウォーカー』等の名著を読んだのもあるんですが、何よりも大きいのがMBA時代のヘッジファンドでのインターン経験。ファンドの人たち、本当に起きている間はずっと株のことを考えているんですね。頭もめちゃくちゃ切れる人ばかり。更に言うと、個人投資家よりも情報がある(機関投資家やアナリストオンリーの決算説明会、有料のツール、セルサイドのアナリスト等々)。これは、個人で片手間でやって勝てる訳がない。安い手数料で市場平均がとれるなら、万々歳ではないかと。

そんな中で読んだ清原氏の本ですが、めちゃめちゃ感銘を受けてしまいました。哲学的な部分だけではなく、具体的にどう投資していたか、という実際に手が動くところまで教えてくれていますし。

そして何より、投資は趣味として悪くない。良い趣味の類型の一つに、「歳をとるほど上手くなる」という点があると思います。例えばゴルフなんかがこれで、70歳がアメフトを大学生とやると死んでしまいますが、ゴルフなら勝てる可能性もかなりあるのではないでしょうか。投資も同様で、若い人に勝てる可能性は十二分にあるでしょうし、種銭が増えると出来ることも増えるはず。爺さんになってからも社会と関わる一つの活動として、個別株投資はなかなか良さそうです。

前置きが長くなりましが、上記経緯でアメリカから日本の個別株を買いたくなったので、実際にやってみた(正確にはやる前々夜)というのが本日の記事です。特定銘柄やサービスの利用を薦めるものではないので、当然ながら投資は自己責任でお願いします。

Interactive Brokersから日本株を買う

日本の株を買いたいと息巻いて日本語・英語でインターネットで情報を探しましたが、見つかったのはETF投資信託ばかり。そんな中唯一見つかったのがInteractive Brokersという会社です。

なんだこの会社は、聞いたこと無いけど大丈夫か、と思い検索してみましたが、ナスダック上場銘柄、時価総額452億ドルの大企業でした(3/15時点で時価総額2.88兆円の野村證券より大きい)。多分大丈夫そうということで口座開設に移ります。

口座開設から投資までの流れはざっくり以下。

1.口座開設

Margin Accountで最初作ってしまったけど、レバかけたり空売りする予定はないのでCash Accountに変更しました。どっちでも良いとは思います。

2.設定から、Japanese Stockに投資するPermissionをとる

3.ドルの銀行口座を接続し、入金

Cash Accountだと着金を待たなければならず、4営業日もかかってしまい少し後悔。

4.入金したドルを円転

5.株を買う

以下のYoutubeが参考になりました。

投資方針

ここからは素人がどうやって株を買ったかという与太話です。清原氏の本を参考に、以下で銘柄をスクリーニングしました。バリュー投資といいますが、PERはざっくり「利益に対し株価が安い」銘柄、ネットキャッシュ比率は「資産負債に対して株価が安い」銘柄を見つける為にやっているとの理解。Xで見かけた、以下ツールがスクリーニングに凄く便利で、時短出来ました。

TDnetSearch |東証の適時開示情報を検索

1.PER10倍以下

等比数列からすると、長期金利2%の前提で、PER=10だと毎年8.2%の減益織り込み。利益に対して株価が安い可能性が高い。

2.ネットキャッシュ比率0.6以上

ここでは、ネットキャッシュ比率=(流動資産+70%×投資有価証券ー負債)÷(時価総額)と定義。ネットキャッシュ比率が1を超えると、換金性が高い資産を全て売って負債を返し、そのまま会社を解散してくれても利益が出る、という状態。より広く使われているPBRは固定資産を実際簿価で売れることは無いため、割安とは限らない、というのが清原氏の指摘でした。

3.小型株

ここでは小型株を、時価総額500億円以下と定義。この規模だと証券会社のアナリストや機関投資家がフォローしないため、割安な株が放置されている可能性が高い、との見立て。

4.営業利益が過去3年間ある程度安定

これは自分が勝手に含めた項目ですが、1のPERの話が一過性でないことの一応のチェックとして含めました。

5.東証上場銘柄

1〜4で検索すると、名証上場銘柄も複数出てきて投資したかったのですが、Interactive Brokersからだと投資できない様で、断念。

その他、清原氏の投資法では、経営者のクオリティや競合の状況、その会社のコアコンピテンス等も分析するのですが、自分がやっても徒労に終わりそうなので省略。上記の基準でヒットした銘柄を、機械的に10銘柄投資することにしました。ただ、それだと後々勉強にならないので、パフォーマンスを振り返る時の参照用として、投資時点で以下をメモしておきました。

  • 過去1年の株価上昇率
  • 過去2年の売上成長率
  • 業界
  • 出来高
  • 経営者の経歴
  • 株主構成
  • その他気付いたこと

そうして出来たのが以下ポートフォリオ出来高が少ない銘柄もあるのであまりにプライスが悪い場合は断念するかもですが、来週日本市場が空いたら取引実行予定です。

基本的には3年とか5年ぐらいは持つつもりで、株価が3倍とか超えて上昇しない限り売らない方針でいきます。今後は毎月の振り返りにも含めて、日経平均株価やS&P500とのパフォーマンスを比較していきたいと思います。

社内転職活動が芳しくない

タイトルの通りではあるんですが、年初から動いている社内転職活動の進捗が、すこぶる良くない。転職活動と銘打ちつつも、Titleは変わらず(=出世を伴う訳ではない)、Jobも同じものなので然程苦労しないものと思っていました。が、2ヶ月近く動いてみて、甘くみていたことは否めない状況です。アメリカで働いている人、働きたいと思っている人にとっては参考になる部分もあるかと思うので、この記事に反省の弁を残しておきます。

現在の状況
  • ペイメント業界で働きだして1.5年程度
  • 社内のノンコア事業にて、Strategyを担当。当初は特定のプロダクトについて、どうやって売上を伸ばしていくかの施策立案をしていたが、このプロダクトが不調に陥る中、新しいプロダクトについての一部機能面や財務面についての検討をリード
なぜ異動を考えているか

大きくは2つ。まず一点は、次のポジションではペイメントに関わる特定機能に注力するチームに移りたいということ。今の会社ではHorizontalとVerticalという言葉がよく伝われるが、今のチームはHorizontalなチーム。Strategyというと聞こえは良く事実良い面も多いのだが、浅く広く、そのプロダクトの為に出来ることを何でも考えましょう、ということになる。ある時はカスタマーサクセスと次に営業をかける客のリストアップをやったり、ある時はプロダクトと一緒に新しい機能のトライアルを行うプランをしたりと、日々取り組む仕事の重心が頻繁に移る。浅く広く色んなことを学ぶには最適だったが、特に言語面やネットワーキング面でハンデがある移民にとって、「この分野であればこの会社で一番詳しい」と言い放てることが無いのはリスクと感じる。また、転職や起業というルートを考える上でも、特定領域の知見の深さがあった方が望ましく思う。

二点目は現在のチームのJob securityに関わる部分。1.5年働いて思ったが、ノンコア事業での仕事は振れ幅が大きくなりやすい。入社時点では急成長が続いていた(だからこそ自分が採用された)訳だが、景気が減速して成長が落ち着くと、瞬く間に会社の空気が変わった。マネジメントやチームメンバーが頻繁に代わると何も進まなくなってしまうし、誰かの不幸を見ると明日は我が身では?との思考もよぎる。この状況を踏まえ、コアビジネスに動いたほうが安全だろう、とも思う。

どんなところに動こうとしたか

「Verticalな機能で定義されたチーム」ではあまりに曖昧なので、中でもどんな機能が良いかを検討した。自分の強みを考えた時に財務や会計、広い意味でのリサーチといった点は比較優位があることと、また出来ればボトムラインに直接的なインパクトがあるチームが良いと思って探した。コアビジネスかどうかはだいたい分かるが、周囲の人に聞いて社内での位置づけについて見誤らない様にした。

プロセス

ざっくり以下。

  1. 社内のポータルでポジションを検索+Recruiterに連絡
  2. 自分の基準にヒットするポジションについて、話聞きたいとHiring Managerにコンタクト
  3. Hiring Managerが、悪くないと思ってくれれば面接進んで〜と言われるのでApply
  4. 面接
結果

5ポジションについて話聞く→1ポジションApply→面接落ち

反省

ここまでの敗因は、弾数不足と準備不足に集約されると思われる。

まず、弾数不足について。面接まで進んだポジションについて聞いたところ、他に5−6名が面接まで進んでいると聞いた。単純計算でオファーを得るのは20%程度。一般的な就職活動で1社しか面接しない勇者はいないのと同様、社内で動く際もいくつか並行して進めるべきであった。

準備不足について。異動先のポジションの仕事内容。社内の中でどこに位置づけられるか。相手はどんなスキルセットを持った人間を探しているか。それを踏まえて、自分がFitする経験を有していることをきちんとアピール出来ているかが鍵となるが、仕事内容の理解が不十分なところがあった。Horizontalなチームでの経験から、多少関連するところを拾い上げて話していたが、自分以上に関連経験が豊富なCandidateもいると思われる中で、敢えて自分をとる理由を説明するのに根拠が足りていなかった様に思う。

今後どうするか。引き続きポジション探しは継続して、良さそうなポジションはHiring Managerの話を聞きに行く。Hiring Manager→面接のハードルが思いの他高いので、良さそうなチームについては事前にチームメンバーに話を聞いて、志望動機やアピールする経験を練っておく。

最後に

完全に雑感になりますが、ジョブ型の組織で働くの疲れる面もあると感じます。特に自分は飽き性なので今いる場所から遠目のところに動きたがる傾向があるものの、同じポジションを常に社内の(しばしば自分より近い経験を持っている)誰かと競っていかないといけないのは、気苦労です。自分の人事は自分ですると、自ら選んだ道なので文句は言えないですが、向き不向きはあるよな、と思うところでもあります。

今日はこんなところで。

マンハッタンの人気二郎系ラーメン、Tabetomo。グレートでした

英語発音学習の振り返り

このブログで何度か紹介しましたが、Accent Advisorというアメリカ発音の矯正に特化した、オンラインのサービスを最近使っていました。自分の振り返りまでに、指摘があったポイントについてまとめておきます。

子音

RとLの発音

日本人が英語で苦労する一番の定番と分かりつつも、自分もマスターできていない。聴き分け出来ているパターンの方が多いと自分では思いつつ、子音と続く場合は特に難しさを感じる。

CL(CrownとClownとか)、PL(PlayとPray)、FL(FlyとFry)あたり、発音学習で両方比較してくれればなんとか分かるけど、流れの中で出てくると文脈判断になってしまっている。

Ar

とにかく口を大きく開けてRの発音することを意識する。FirmとFarmとかですね。サボると fə́ːrmに音がよってしまう。

W

Vowelとか、Wの発音を忘れることがあるので要注意。

NとNG

鼻の奥を響かせる様なイメージでNGを捉えている。SingとSinとか。意識すれば大体正しい音が出るのと、あんまりこの区別がCriticalになる場面がなさそうなので気にしていない。

Flap T

T→Dの変化。有名なやつ(Waterとか)は概念として把握していたが、思った以上に頻発する自覚が無かった。Authenticity、Capabilityとかまで、D化はしていなかったが、今後は意識したい。以下がルールらしい。

004: T Pronunciations (Flap T, Stop T, True T) - Rachel's English

Flap T Rule 1: a T is a Flap T between two vowels or diphthongs (beautiful, city)

Flap T Rule 2: a T is a Flap T after an R before a vowel or diphthong (party, dirty). Applies to linked phrase: (a lot of, about it)

Stop T

PortfolioとかShort TermとかFitnessのTが消える、みたいな。Tの次に子音が続いたり、Tで文章が終わる時は、Tで息を止めることを意識。

DzとZ

こちらは指摘されて初めて気づいた、今まで混同していた音。CarsとCardsみたいな。上手く書けないけど、Dを発音するノリでウ行に切り替えると、それっぽいDzの音が出るようになった。

母音

Short i 

日本語のイとエの中間で覚えていたけど、自分の場合それだとE音に寄りすぎてしまう模様。また、Long iに聞こえてしまうパターン(LiveがLeaveになる)も指摘された。普通にイの気持ちで、心なしかエのFlavorあり、ぐらいで発声したほうが良さそう。

Short O

TalkとかBondとかですね。Longとか、「ロング」みたいにカタカナで覚えてしまっているパターンで、Short Oの音ではなく普通にロングって言ってしまっていた。これでも場所によっては間違いにはならないっぽいが、アメリカ英語ではShort Oが基本なので、意識。

その他

Fluencyは未だに課題

多分これが一番根深い。頭の中でSentenceが出来たら、それを一気に話す癖がある。敢えてスピードを落とし、英語のリズムで話すことを意識。

リエゾン忘れない

これはそのままだけど、子音・母音が続く時のリエゾンを意識。

まとめ

自分が発音を気にする様になってから、アメリカ人が話す母音、子音にも意識が向くようになってリスニング能力も多少改善した気がする。

即興で慣れてない場面だとしどろもどろになるケースはあるものの、内容が頭の中で明瞭になっていれば、発音起因で伝わらない、ということは流石にかなり少なくなった気がする。発音良いに越したことはないので、また気になったら受講しようと思う。

2024年の目標レビュー(2月)

2月分もやっていきます。

1.Core Businessの主要機能に異動する

→85点。結局面接まで進んだのは1チームのみだが、Core Business・主要機能という当初のテーマに沿ったチームと話を進められている。社内で同じRoleでの異動なのでもっとハードルが低いと思いきや、結構ヒットレシオが低いんだなと感じる。景気があんまり良くない為、ポジションの需給的に動くのが難しいのかもしれない。

ただ、結局異動すべきかは未だに悩んでいる。今のチームの構造的な問題(成長が止まったNon core故にJob securityが低い、加えて上司の問題解決力に難あり話が進まない)は変化なしだが、仕事自体は目に見える範囲で最も面白いものを今年は担当できている。とりあえず新しいチームからOffer貰えたら、もう少し考えたい。貰えずとも、ダウンサイドは特に無いので引き続きポジションを探す。

2.Meetingのファシリテーションとプレゼンを卒なく出来るようになる

→90点。昨年後半から担当していた業務を大ボスにプレゼンしたところ、大変に好評を博するということがあった。その後チーム全体に対して講師的な立場で呼ばれて内容共有したが、これもスマッシュヒットだった。入社以来、最も上手くいったプレゼンの様に思う。自分なりのコツを箇条書きにして残しておく。Scriptをどれだけ作るかは英語力に依存するところもあるので、各々のステージに応じて最適点が変わるのだと思う。

  • Scriptは作らない。Scriptを思い出そうとして自然さが失われ、即興での対応力が落ちる。その代わり、本番前に一人でリハーサルを声を出して何度かやる。ただし、出だしの掴みだけは何を話すか練り込んでおく。
  • Q&Aを入念に準備する。スライドが出来てから時間を空けた後にReviewして、「自分だったらどんな質問を投げるか?」「説明が不十分な点はどこか?」と自問自答。スライド足すレベルの話なら本編に入れたり、マイナーな話ならAppendixにスライド追加。スライドにするまでもない話でも、回答イメージを持っておく。
3.職場のSocial Eventに毎月1つ以上参加し、社内事情に詳しくなる

→70 点。社内イベントには参加せず。必須度が高いイベント0回だったので、已む無し。

一方、Japan Community経由で仲良くなった同世代の日系アメリカ人女子が、結婚するということで自宅に招いて寿司パーティを開催したりした。Japan Communityの他の青年ともランチしたりと、友達寄りっぽいSocialは何度かあった。Japan Communityの人々、皆人当たり良く優しい人が多く、かつ声を掛けると集まりも驚く程良い。企画する度に皆に感謝してもらえるし、今の会社でやった最もポジティブな実績は、Japan Communityの立ち上げなのかもしれない。。

4.月に1回は家族で観光っぽいことをする

→100点。President Dayの3連休で、妻と一緒にNYCを訪問。完全に自分の趣味に寄せてしまったが、バーニャ訪問したり、大学時代の友達の家を訪問したり、楽しい時間だった。Midtownで一緒に買い物しスニーカーをプレゼントして、喜んでくれていた様に思う。

 

次は車で行ける範囲で出かけようという話になったが、そろそろ周辺都市で良さそうなところを網羅してしまった感がある(アナポリスボルチモアフィラデルフィアリッチモンド・シェナンドー国立公園訪問済)。Virginia Beachに訪問するかという説も出たが、Youtubeで見た感じではそそられなかった。東京に住んでいた時、2人で都内各所のビジネスホテルに泊まって小旅行感を出す、という活動をしていたが、同じノリでDC観光するのが一番、というのが当座の結論。

5.奨学金を通じて地元の高校生の留学を支援する

→85点。奨学金の選考をスタート。今年から、妻も面接の時に同席してくれて、協力してくれる様になった(このまま募集を増やすための取り組み等、ズルズル協力してもらう方向に引きずり込みたい)。

6.一度限界まで筋肉量を増やした上で、減量する

→40点。2/24現在で76.4kgと、300g減に留まった。平日の食生活は安定しているので、旅行含めて土日に食べすぎた結果、平日減量→土日に戻す、というループに陥った。土日の朝散歩、昼の外食で食べすぎない(多い時は残す)+カロリー低めの食事にする、というのを意識したい。

7.移民や起業家の人生に焦点を当てたコンテンツを作る

→80点。個人的な興味として、日本人移民の歴史について調べてブログにまとめてみた。日系一世の歴史についてまとめた本も購入したので、今読んでいる本が片付いたら読み進めたい。

このブログも記事が増えてきて、且つ自分の関心領域(留学、移民、他人の人生、英語)等をカバーするサイトとして、このブログも作り変えようかなあ、と最近思っている。アメリカ移民ドットコム、みたいな感じで、留学や就職ルートでアメリカに渡る人に役立つ日本語情報がまとまっているサイトがあれば、今の時勢にもあっていると思う。毎回時間を言い訳にしているが、ちょっと他にも色々進捗が出ていないので、余裕が出来たら取り組みたい。

8.日米以外の国1カ国、新しい州3つ、新しい国立公園1つ訪問

→75点。新しい州では全くないけど、久々に旅行目的でNYCを訪問。3月は特に予定なしだけど、DCの観光地をめぐりたい。こちらの動画、良くまとまっているし、日本人Youtuberとは違う切り口でDCの旅行案内をしていて、とても参考になった。Agriculture department(政府機関)の建物内の食堂がヘルシーで美味しい、Native american museumの食堂はNative Americanの人々が食べていた食事を体験できる等、この動画で知った。

9. 過去からの大切な友人と最低1度はキャッチアップ

→90点。NYCで大学時代からの友人とキャッチアップした。大人になってからも会える昔からの友人は本当に貴重だと、最近しばしば思う。

来月はKelloggの後輩と、St. Patrick Dayのイベントに行く予定。Cherry Blossom Festivalにて森山直太朗の無料コンサートあり、日本人の知人と再会する予感がする。あと、こちらで知り合った医師の方が日本に帰国されるらしく、何か送別を企画したい。

10.月に5冊以上本を読む

→60点。読了できたのは先月の英語発音本と日系人の歴史本のみ。ランチタイムやジムの間もネットサーフィンしたりと、ペースが落ちてしまった。週2で入れていた発音レッスンを解約し夜の時間が増えるので、21−22時あたりは読書に充てたい。今月読みたい本は以下。Searching for my PB & J Sandwichは、幼少期に親に見捨てられたプエルトリコ人の著者が、いじめや英語にまつわる苦労を乗り越え、養子に迎えてくれる家庭を見つけ起業家として成功するまで、という話。Podcastで本人が話しているのを聞いて、あまりの迫力に感銘を受けて本を買ってしまった。こういう人生気合入りまくっている人の話に触れられるのは、アメリカで暮らす醍醐味だと思う。

11.英語力改善

→80点。2月も発音レッスンは全て受講し、開始から2ヶ月程度週2受けてきたところで、解約した。受講を続けていくにつれてすぐ改善するポイントは良くなる+すぐ改善出来ないところは引き続き指摘が来る、というのが続き、受講自体に依るメリットが逓減してきていると感じて解約。ただ、Tutorの方は非常に熱心で、且つ自覚していなかった自分の発音の問題点に気づけて、本当にやって良かったと思う。発音専門のアメリカ人から直接指導を受けたいという方には、こちらのサービスはかなりおすすめ。完全自己満記事となるが、発音矯正の振り返りは別記事でまとめて、今後の取組み方針も考えたいと思う。

発音矯正が一旦終了したので英語改善に向けて特別な取り組みは足元なくなるが、隙間時間は洋書を読む、Podcastを聴く、週1ペースで英語でのSocial Event企画する、仕事でアウトプットのペースを上げて人に説明する機会を増やす等、地道な改善を続けたい。

12.英単語帳を出版する

→50点。2月に終了しようと思っていたが、、NYC旅行を満喫してしまい、企画含めて時間を使った結果ペースを乱してしまった。あと30例文ぐらいなので、週10例文ペースで例文作成を続け、3月には完了したい。

13.アメリカでの不動産投資について勉強する

→0点。特にアクション無し。アメリカ人の友達が不動産を買うらしく、彼から話を聞きたい。

14.アメリカの定番コンテンツに触れる

→60点。Succession、自分は面白いと思ったが妻にはあまり刺さらず終了。趣旨からズレるが、Kelloggの同級生から勧められたBlue Giantを見たところどハマりしてしまい、何度もライブシーンを見返すことになった。毎週金曜日の夜=土曜日日本時間午前は暫く奨学金面接に使う為進捗を出せないが、金土日の夜で空いているところ、毎週1つぐらいは消化していきたい。次はOfficeかなあ。

15.自動車運転

→0点。日本の免許をアメリカ免許に切り替える為の手続きで、事務的なところで足踏み状態となっている。

3月の楽しみなイベント

上述の、St. Patrick Dayのイベントと、森山直太朗のライブが楽しみである。仕事面では、新しいチームの面接結果が出ていると思われる。異動するか否か、3月前半は悩むことになりそう。

NYの有名店、Los Tacos No.1は人生で一番美味しいタコスだった。カリフォルニア経験がある妻は、まあこんなもん、と話していたけど

アメリカのサウナ文化:ニューヨーク(NY)のサウナ

President Dayの3連休を使いNY旅行という名のサウナ旅行に出てきたので、マンハッタン周辺にあるサウナについて感想を書いていきます。この記事を読んでいるサウナーの方は既にアメリカでのサウナ検索方法について熟知頂いているものと想像しますが、不案内な方は以下記事のご一読をおすすめします。

さて、いつもの要領でNYでRussian Saunaと検索すると、マンハッタンで2件、ブルックリンで3件、クイーンズで1件のサウナがヒットします(更に、ニュージャージーにも数件あるみたいです)。他都市では考えられない充実具合。。。流石、アメリカの最大都市です。Wikipediaによると、北米・南米で、ロシア系の数が最も多い都市でもあるそうです。

Russian Americans in New York City - Wikipedia

この内、ブルックリンのBrooklyn BanyaとマンハッタンのSpa 88とRussian & Turkish Baths(後者は以前訪問)を訪れたので、感想をメモしていきます。

Brooklyn Banya
公式HPより
  • サウナはDry Sauna、Wet Saunaとスチームルームの3つ。Dry saunaは15人ぐらい、Wetは10人ぐらいのキャパ?
  • 昼の12時ぐらいに訪問したのもあるが、マンハッタンの2件に比べて圧倒的に空いていたのが良かった。施設内公用語は完全にロシア語。地元の銭湯を訪れた外国人観光客のような気分になった。妻がロッカールームから出てくるのを待っている間、妻は「あなたのBoy friendが下で待っているわよ」とロシア系のおばさまから絡まれまくったらしい。
  • 家族経営の様なテイストで、マンハッタンの2つほど施設は充実していない。が、Dry SaunaもWet Saunaも出力あり、体感90度を超える。水風呂もしっかりしているので、必要十分ではある。唯一、レストランが空いていなかったのは少し残念だった(雇っていたシェフが1ヶ月前に辞めちゃったのよと、受付のおばさまが教えてくれた)。
  • ロッカーを間違えやすいので要注意。間違えて女性ロッカーに突入してしまった(誰もいなくて良かった)。妻によると、他にも男性がロッカールームに入ってきたらしい。
  • 時間が無かったので開拓しなかったが、屋上が整いスポットとなっているらしい。
  • ブルックリンにやけにRussian Saunaが多いので調べたところ、ブルックリンの海沿い、 Brighton BeachとSheepshead Bayはロシア系の人々が集中しているらしく、特にBrighton BeachはLittle Odessaと称されるほど。Brooklynの後2つのサウナはロシア系が多い地区にある為、一層ローカル感が強いのかもしれない。
  • Google Mapで評価が微妙だったので心配したが、総論、めちゃくちゃ良かった。サウナは2つともサウナー仕様。水風呂は体感17℃ぐらい?ラクーアの水風呂ぐらい。価格が60ドルと、日本人的にはひっくり返る様な値段であるが、NYCのサウナのインフレ率は凄まじく、2024年現在ではこれぐらいが普通な模様。
  • 現金しか受け付けていないので注意。店内にATMはある。
Spa 88

  • ウォールストリートにあるスパ。アクセスがすこぶる良い。それ故Brooklyn Banyaとは客層が大きく異なっており、施設内の世界地図に客が出身地にピンを置いていっていたが、日本含め、世界中から人が訪れていた。
  • 入口は狭いが、施設内は意外と広い地下空間が展開している。中二階?には食事スペースやプールがあったりする。
  • サウナは4つ?メインのStone Heated Saunaの他、温度低め湿度高めのShvitz、遠赤外線サウナ、スチームルームがある。Stone Heated Saunaの最上段は相当に熱く、ロウリュウを開始する人がいると、草加健康センターを彷彿とさせる熱気となる。
  • 水風呂は公式に依ると11℃程度。水深140−150センチぐらいと、ハードコアな温冷交代浴が楽しめる。
  • 価格は平日59.75ドル、土日64.75ドル。
  • こちらも、総論すこぶる良いサウナです。場所柄混雑するのと、サウナ自体はStone Heated Sauna1強の感が無きにしもあらずだけど。

公式HPより

公式HPより

Russian & Turkish Baths
公式HPより
  • 1892年創業の歴史あるサウナ。
  • こちらもアクセスが良い。皆大好き、米国屈指の二郎系ラーメンのTabetomo始め、日本飯が集中するEast Villegeにあるので、Spa 88と並んで多くのサウナ好き日本人の、NYでの有力な選択肢となるはず。
  • 水風呂が公式で8℃。キンキンに冷えていた。
  • Men Onlyのタイミングがあるので、女性は要注意。
  • DavidとBoris、2人のオーナーが代わる代わる運営しており、どちらの日であるかに依って、客層が異なるらしい。"David weeks’ have digital swipe passes for admission and tend to attract the younger, Dimes Square set, while ‘Boris weeks’ are distinctly more old-school with paper or plastic punch cards and a larger proportion of the Russian and Jewish loyalists that have been visiting the baths for decades." 

    We visit the Russian & Turkish Baths in New York City | Wallpaper

  • 価格は60ドル。NYのバーニャはカルテルでも結んでるのかと思う。

  • こちらも混雑してたけど、とても良いサウナでした。NYのサウナ、レベル高い。

日本人のアメリカ移民の歴史

アメリカで生活しているとつくづく感じることとして、日本のバックグラウンドを持つ人がとても少ないということがあります。中国人やインド人の方が圧倒的に数が大きいのは人口比を考えると已む無しとしても、日本人より人口が少ないはずの、韓国人の方が遥かに大きなコミュニティを形成していることに気付きます。

それはそういうものとして流しても良いんですが、日本人の在米の移民はなんで少ないのか、過去を遡っても少なかったのか、日本人の移民はどこに渡ったのか、といった薄っすら興味を持っていたことを、サクッと調べてみたので学んだことを書き残しておきます。

元ネタは以下2つです。

第1章 前史 ブラジル移民がはじまるまで(1) | ブラジル移民の100年

日本人の移民の大きな流れ

日本人の移民は明治維新と共に始まります。鎖国と言うと海外からの影響を制限する方向でイメージしてましたが、日本の物品や人の輸出を制限する方向にも作用しており、江戸時代には日本の一般人が海外に移住することは無かった様です。明治元年、最初の移民の行き先は、アメリカに組み入れる前のハワイとグアム。その後ハワイ王国とは協定も交わされ、日本人の移民が19世紀後半に海を渡りました。移民の動機は、お金。

移民たちは移民募集人の宣伝を信じて、誰も彼も皆大きな夢に酔っていた。そのあるものは五年稼いで五万円持って戻るといえば、他の一人は、いや俺は十年おって十万円儲けるまでは帰らないと頑張った。もうそうした大金を握ったような風である

日系人の歴史を知ろう』より

明治期の農村は困窮を極め、子供も多い。都市化が進展する中でも、農村の余剰となった労働力を吸収するほどの仕事は無い。そんな中で、貧しい農村部の子弟が、一攫千金を夢見て、海外に渡った様です。行き先の人気は給料と比例しており、北米→ブラジル→ペルー、という順だったそう。

20世紀初頭、増加する日本人移民に対する懸念が広がり、日露戦争後は黄禍論も唱えられる様に。そして、アメリカ・カナダ・オーストラリアといった国々が移民を制限する方向に動く中で、代わりの行き先として目されたのがブラジルとボリビア。19世紀後半に奴隷制が廃止となったブラジルでは、プランテーションのOwner達が代わりの労働力を求めていました。移民して一攫千金を臨む日本人と安い労働力を求めるブラジル人のニーズが一致し、日本人の移民が20世紀初頭から増え始めました。Easy moneyを想像して日本の津々浦々から来たものの、実態は奴隷の置き換え。それに気づいた移民達は、次第に自分たち自身が農場を経営しないと豊かにはなれないと悟り、ジャングルを開墾。川に近いと米が取れると選んだ土地で、マラリアが蔓延して死者が続出する等、当初は大変な困難に見舞われるも、農場経営に成功する者も現れ始め、次第に経済力を伸ばしていった様です。

日本人のブラジル向け移民が急増したのは、1920年代。関東大震災後の救貧対策で政府が補助金を出し移民を奨励したこともあり、移民が激増。1925年から1941年までの間に、12万人ほどがブラジルに渡りました。1933年に満州事変が発生した多くの日本人の行き先は満州国となったことから、南米への移民は一服。戦後にブラジル向け移民は再開されるも、日本の経済発展とともに60年代以降は数も少なくなり、逆に80年代からはブラジルの不況を逃れ、ブラジルの日系人が日本に移民してくる流れが出来ました。

雑感

概ね経済状況で移民ニーズの大きさが決まり、受入国の政治状況で移民の数が決まる

冒頭に書いた問い、「日本人の移民は過去に遡っても少なかったのか」に対する回答は、明治維新〜戦前までは移民は行われており、特に1920年代は多くの移民が南米に渡ったことが分かりました。移民の動機はシンプルに経済的な事情であり、戦前の貧しい農村に対して、相対的に所得が高かった(少なくともその様に思われた)北米や南米への移住が行われました。一方、戦後の日本からの移民が増えなかったことは、日本の高度経済成長の帰結と言えそうです。

令和の現代に目を向けると、自分自身も給与水準がより高いアメリカに渡っていますし、日本でも「海外出稼ぎ」がテレビやネットで取り上げられることが増えている様です。給与格差が開いたので移民の機運は久方ぶりに日本社会で高まっているとも言えそうですが、戦前とは出生率が全然違うので、海外で大きな日本コミュニティを形成するようなことにはならなさそうです(日本は寧ろ人手不足)。

移民が労働力を供給し税金を払うのは概ね受入国にもポジティブという考えがアメリカやカナダ、シンガポールといった移民が多い国では強いと思われますが、受け入れにも限度はあり、時の政治によって排他的な政策が取られると、一気に激減するということも分かりました。

ハワイを除くと、アメリカにまとまった移民があった時期はそんなに長くない

明治維新後に日本人の移民がスタートし、アメリカ本土行きの移民が増えたのは1900年頃。その後すぐに移民を制限する方向にアメリカは動き、且つ1930年代は前述の通り満州国への移住が増えたことから、戦前の日本人が、アメリカ本土に大挙して移民した時期は然程長くない様です。日本人の移民が歴史的にピークを迎えた1920年代、北米行きのルートが断たれていた日本人は南米に流れました。他の国の移民の歴史は調べられていませんが、戦後、政治的・経済的な理由で大勢の移民が押し寄せた/押し寄せている中国やインド、ベトナム中南米とは、かなり様相が異なると想像されます。勿論、仕事や結婚等でアメリカに移る人は一定程度はいつの時代もいたのでしょうが、国内の状況に起因して一斉に人が流れていく移民とは、コミュニティの形成され方も違いそうです。絶対数もそうですが、在米の日本人の連帯感が弱い背景には、個々人特有の事情でアメリカに移ってきているケースが多いから、という仮説も立ちます。

情報ソースを分散していないと、プロパガンダに人は簡単に流される

ブラジルの日本人移民の歴史を追っていると、根拠の乏しい情報に踊らされる人々が多数現れます。太平洋戦争開戦後、蚕をアメリカに売っている人間はアメリカの軍服の素材で金儲けする「国賊」として、「天誅組」というグループの襲撃にあったそうです。特に印象深かった事件は、日本語の「勝ち組」「負け組」という言葉の語源となった、第二次世界大戦後の混乱に関わるものです。日本の敗北を告げる玉音放送はブラジルでも聞かれたそうですが、そういった情報を都合よく解釈し、日本は本当は敗戦していないと信じたグループを「勝ち組」、敗戦を受け入れたグループを「負け組」と読んだそうです。戦争下、邦字新聞が廃刊となり、唯一の情報源が日本語で華々しい戦果を発信するラジオ放送。ブラジルでも敵国人として扱われ差別に遭う中、多くの「勝ち組」は日本語情報を信じ続け、逆にその他の情報を受け付けなかった言います。一方、「負け組」の多くは現地の情報にも触れる知識人が多かった様です。驚くべきは、「勝ち組」が日系人全体の9割にも上ったと指摘されていることです。

インターネットの世の中とはなりましたが、同様のリスクは現代にも潜んでいる様に思います。過去、留学していた時に中国でテレビをつけると日本軍を打倒する中国軍もので溢れてましたし、日本のニュースにおける中国の扱いも好意的とは言えないものが多いでしょう。アメリカでも、右寄り、左寄りで扱うニュース違えど、反中国、反露といった点では一致している様に思います。

移民家庭のアイデンティティは世代によって大きく異なる

ブラジル移民の親世代はゴリゴリの日本人。子供も日本人として育てられるも、「日本人でありブラジル人」といったアイデンティティを形成し、更に世代を下ると、日本という部分がどんどん小さくなっていく様が読み取れます。「日本」という国としてのアイデンティティが薄まる一方、人種は個人についてくるので、人種としてのアイデンティティが残っていくのかな、とも思います。アメリカにいる白人の多くは、アイルランド系とかドイツ系というより、白人のアメリカ人と自認している様に、アジア人も徐々にアジア系アメリカ人、という枠組みで自己を捉える人が多くなるのかな、と思いました。

(追記)アジア各国からのアメリカへの移民の数

上記を書いてから、興味を持ってアジア各国からの移民の数と、各種データソースから集めてグラフにしてみました。手打ち部分もあるのでデータの質は保証できませんが、トレンドを抑える上で結構面白いデータだと思います。ソースは全部は載せませんが、以下の様な、ネットで見つけたUSのCensusから数字を拾っています。

https://digitalcommons.kennesaw.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1090&context=jgi

まずは戦前から。ゴールドラッシュの最中、カリフォルニアでの鉱山での労働に従事した、中国人の移民が19世紀後半に増えます。が、1882年のChinese Exclusion Act成立以降、中国人移民の数は頭打ち。その後、1900年頃から日本人の移民が増え始め、1910年には中国人移民の数を上回る。1924年にImmigration Actが成立し、日本からの移民の頭打ちに。戦前は、韓国系、インド系の移民はかなり限定的なものだった様です。

続いて戦後。1970年までは日本人が最大グループだった様ですが、1980年に中国人に抜かれ、2019年時点では中国系、インド系、韓国系よりも日系の数はかなり少なくなっています。アメリカの移民政策が大転換を迎えたのが1965年のImmigration and Nationality Act。この法律の成立前はアジア系の移民は制限されていましたが、その制限が廃止となり、以降、中華系、インド系の移民が激増します。

日系移民の数が戦後然程増えなかったことは私自身の想像が入りますが、1965年といえば日本は高度経済成長の真っ只中。2000年代に至るまでアメリカとの所得の差は然程大きくなく、移民するインセンティブが相対的に弱かったことが想像されます。2024年となりアメリカとの所得格差は足元大きくなってきていますが、少子化・言語面でのハードル・治安含めた生活面を考えると、今後も日本人の移民が劇的に増える可能性は小さそうです。韓国も同じ道を辿ると思われ、続いて中国の移民も頭打ちになるのかもしれません。